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生死の境(「人生生涯小僧のこころ」を読んで)

2008 - 08/01 [Fri] - 05:00

人生生涯小僧のこころ―大峯千日回峰行者が超人的修行の末につかんだ世界人生生涯小僧のこころ―大峯千日回峰行者が超人的修行の末につかんだ世界
(2008/03)
塩沼 亮潤

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 この本の帯には、こう書いてある。

 さらに、千日回峰行の後には、断食、断水、不眠、不臥(食べない、飲まない、寝ない、横にならない)を九日間続ける四無行という行も成し遂げた。
 こう聞けば、著者はまさに超人。その言葉は現実離れした悟りを開いた人間のものと思われるかもしれないが、実は至って平易だ。
「現実を受け入れ、愚痴らず精いっぱい生きると、そこに道が開けてくる」
 苦行を乗り越えた僧侶の言葉には、生きるヒントが溢れていた。苦しい時こそ噛みしめたい一冊である。



 千日回峰行とは、なんとなく想像つく・・・・大変だとろうね。そのあと、四無行??って凄いですね。この方、どんな人?なぜにこんなことするわけ?

 読み始めると、それは、自分の想像をはるかに越える壮絶なものであった。そして、最後まで一気に読んでしまったのである。
 
小峯産のお札と杖2008-07-27 大峰山に行ったのはもう3年前になる。当時この山々は世界遺産に登録され、修行僧がたくさん登る山で、しかも、女人禁制の山としてテレビのワイドショーにも登場していた。去年いく予定でした(2007年5月25日の日記)が雨で延期となってその後行くことができませんでした。

 うちの親類縁者は昔からこの山に関係があるらしく、親戚の裏山には大峰山の小さなほこら?が祭ってある。そんなわけで3年前の夏、この山に登ったのである。平らな山道(登り道)などはわずかしかない,とにかく石段や木の段が延々と続く山であった。(写真は、登る前にふもとで買った500円の杖で短いのは一緒に行った3男のもの、それと頂上で買ったお札)

 なんども、山伏の格好をした人々とすれ違った。ほら貝を吹いている人もいた。ふもとの宿場町?は、夜の11時近いのに、お土産屋さん、衣装屋さん、旅館、食堂、飲み屋、すべての店や家の電気がこうこうと光り輝いていた。なにか、別の世界にきたような気がした。そう、あの「せんと千尋の神隠し」のような感じでいろんな人が大通りを歩いていた。

 そんな通りや山道をこの著者は一人夜中に歩いていたのだろう。黙々と・・・・・。

 千日回峰行ーー。往復48キロ、高低差1,300mの山道を毎日、16時間かけて9年間歩き続ける。この荒行は著者を含め、1,300年にたった二人しか達成した者はいない。

 一日でも登るのをやめればそこで修行は終わりである。もちろん、一日で往復できなければ修行は終わりとなる。夜11時半に出発、朝の八時に頂上のお寺から岐路につく。なんと、深夜に登るのか・・・・・。 夜中だよ、深夜にたった一人で山道を歩くなんて自分は絶対できません。大雨や台風のときも歩き続ける、高熱があっても歩き続ける。信じられない。

 現れた霊?に著者は語りかける「こっちも忙しいんだから遊ばないで」・・・・不思議に怖くないという。三匹の餓鬼、落ち武者の亡霊、仙人、幻覚なのか仏様の試練なのか分からないけど、このような不思議な体験も幾つか書かれている。

 修行中は、体に刃物を使ってはいけないというので髪や髭は伸び放題になったいたという。この人を夜中に見れば、まさに、仙人に見えたかもしれない。滑るように歩ける感覚になったという・・・・・。

 月刊誌致知の8月号に塩沢師の講演会の話が載っていた。
SANY2165-生涯小僧の心

 肉体的にも精神的にもぎりぎりの状態のところに自分を追いやると、その場所にしか咲いていない悟りの花のようなものが見える」ことや「人間は苦しいときの心が一番澄んでいる」と語られ、日と博すし身の中から喜びを得るために生まれてきたこと、また、苦しい状況の中でこそ出会える真の法悦があることを力強く話されました。
 いよいよ万行を迎えた千日目、いまの心のまま、最後の一息まで「人生生涯小僧の心」でありたいと願ったという<以下略>


 この修行を達成した後、さらに、「四無行」という荒行に挑戦する。食べない、飲まない、眠らない、横にならないを9日間続ける・・・・・って、信じられない。この修行に失敗したときは死ぬとき、神仏に見放されたことだという。なので、修行の前には、家族も呼んで自分の葬式をあげるという。

 この修行も想像を絶するものだ。自分の苦しみなど部屋の片隅の塵にも及ばない。線香の灰の落ちる音が聞こえるという、誰が部屋に入ってきたか臭いで分かるようになるという。極限の中で人間の五感がとぎすまされていくという。まさに、仙人だ。

 この生きる力は何だろう。「自死という生き方」を書いた哲学者、いかにこの世に未練無く死を迎えることができるか追求した人間である。そして自ら死んだ。
自死という生き方―覚悟して逝った哲学者自死という生き方―覚悟して逝った哲学者
(2008/01)
須原 一秀

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 この荒行をする人間は、それとは正反対の考え方ではないだろうか、死と直面する修行をして生死の境をさまよって生きた(今も生きている)この著者との違いはなんだろう・・・・・。


 この本の中にこんな一文があって、心に残っている。
読み上手書き上手 (ちくまプリマー新書 76)読み上手書き上手 (ちくまプリマー新書 76)
(2008/02)
齋藤 孝

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「寅さん、人間はなぜ死ぬのでしょうね」
「人間? そうねえ、まァ、なんて言うかな、結局あれじゃないですかね、人間がいつまでも生きていると、陸の上がね、人間ばかりなっちゃう----
うじゃうじゃ、うじゃうじゃメンセキが決まっているから、みんなでもって、こうやって満員になって押しくらマンジュウしているうちに、足の置き場がなくなっちゃって、隅っこにいるやつが、アアなんて海のな中へ、パチャンと落っこって、アップ、アップして、『たすけてくれ!助けてくれ!』なんてね、死んじゃう。
結局、そいうことになっているんじゃないですか、昔から、そういうことは深く考えないほうがいいですよ」

 哲学者先生は、寅さんに言うかも知れないね。
「だからこそ、今、死ぬんですよ。病気や老衰や痴呆で自分で生きられない、自分自身が分からなくなる前の最高の人生のうちにね。」
寅さんはこう言うかも、
「教授先生、考えすぎだよ」

 塩沼住職は、こう書いている。 

 決定的に自分の生き方が変わったとき、決して自分から「ああしよう」「こうしよう」としない生き方になってきておりました。できるだけ自然の流れにしたがい生きていこうとこことがけるようになりました。ついに自分の気持ちが高まり、あれもしたいこれもしたいという気持ちが出たときには、それを抑えます。そして、目の前に出会った人、目の前にきた仕事というものに徹底的に心をこめてお仕えさせていただくようになりました。

 「千日回修行」「四無行」と生死の境をさ迷った人の結論というものは、こうやって「自然律」という生き方考え方になるんですね。この本にも書かれていますが稲盛和夫さんの「生き方」にある『足るを知る』って事に通じていきます。

 うちのマンション(自分の将来)も「ああしたい」「こうしたい」とけっこう欲が出てきますけど・・・・、とりあえずは、今はまだ、我慢、我慢、時期が早いと思っています。息子たちが学業を卒業するまで、現在の仕事を頑張りつつ少しずつ計画を実行しながら、いろいろ練りに練っていこうと思います。
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